2011年12月21日水曜日

クリスマス特集


写真 1 ヴァイナハト・マルクトの看板

 Weihnacht、クリスマスです! 日本では縁遠いものですが、せっかくヨーロッパにいますので、楽しみたいと思います。
 11月に入ると、街や郊外の幹線道路にWeihnachtmarkt(ヴァイナハト・マルクト)の看板が出ました。1121日からクリスマス直前まで続く、クリスマス・マーケットです。蓋を開けてみるととても楽しくて、とてもきれい。街の広場や広めの通りに、小さい露店がたくさん並びました。
 インビス(軽食サービス店)、蝋燭、お菓子、クリスマス・オーナメントなどなど賑やかなものです。なぜか南米の毛織物やニットを扱ってたり、クリスマスとはまったく関係ない陶器、おみやげ、工具(?オブジェ?)を売ってたり、これは長期にわたって昼も夜も続く縁日みたいなものなんだなと思いました。

★グリューワイン
 
写真 2 グリューワインGlühwein

 ドイツのホットワインはグリューワインGlühwein。砂糖、レモン、ハーブなどが入っているようです。赤と白があり、お店によって味が違います。グラス代を含めた料金5を払って、グラスを返却すると2返ってきました。値段は店によって違いますが、おみやげに持って帰ることもできます。
 今年は去年より寒くなるのが遅いので、ヴァイナハト・マルクトはすごい人出です。グラスの縁まで注がれたワインを持って人ごみを避けるのが大変ですが、人にもぶっかけず、自分も手袋がべたついたくらいですみました。

ツリーが来ました。

写真 3 部屋の割に大きすぎるクリスマスツリー。

 自宅近くの広場で売っていたWeihnachtsbaumを主人が機嫌良く買ってきて、どうやって立てるのかはたと悩み、結果的には街中の園芸用品店でスタンドを見つけました。このツリーを捨てる日というのがごみ収集表に載ってて、私たちの所では112日まで飾りを楽しむことができます。
 ガラスボールのような球形のオーナメントを街でもよく見かけるので、電飾と一緒に買ってきました。このオーナメントはドイツ発祥らしい。細かな装飾をしたものは一個ずつバラ売りで値段も張るので、ドイツ人も毎年ちょっとずつ買い集めているのではないでしょうか。
日本から遊びに来てくれた友人が、いくつかのボールに装飾したり、リボンをつけたりしてくれました。

雪が降りました。

そして、1219日、雪が積もりました。写真は夜明けに撮ったもの。つもったのは5cmくらいです。住まい周辺の歩道は幅1mくらいをきちんと除雪してありました。どんな機械なのか、見てみたい。
 寒いけれど、昼間晴れたら気持ちいいです。

 もうすぐクリスマスと新年ですね。皆さん、よいお年をお迎えください。

2011年12月9日金曜日

ハイデルベルグ


 ハイデルベルク、旧市街遠景 北岸の哲学者の道から南岸(城のある側)を見たところ

 2011年10月末、熊本市と姉妹都市になっているハイデルベルグを再び訪れました。7月にドイツを回ったときも訪れたのですが、時間の関係でお城しか見られなかったので、今回は町歩きが中心でした。
 ハイデルベルクといえば、ドイツ国内で最も古い大学と、ハイデルベルク城と、ネッカー川にかかるアルテ・ブリュッケ、北岸の哲学者の道などが観光スポットとして有名です。
 
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 19世紀ごろにはハイデルベルグにとって観光業が大きなテーマになり、青春を象徴する大学町としてアピールされるようになりました。ヨーゼフ・フィクトール・フォン・シェッフェルの詩「アルト・ハイデルベルク、麗しの街」と1901年に初演された芝居「アルト・ハイデルベルク」によって、ハイデルベルクは19世紀の学生生活の象徴となったのでした。また、この都市は第二次世界大戦中にも焼けなかったので、中世バロック様式の旧市街を遺す、数少ない都市の一つとして観光客を集めています。


ハイデルベルグ城
                         旧市街から見上げたハイデルベルク城

 ハイデルベルク城は13世紀頃からプファルツ伯の居城として拡張を続けた城で、ロマネスク、ルネサンス、ゴシックなどの建築様式や装飾の変化・発展が見られます。城自体は17世紀になると30年戦争やプファルツ継承戦争の影響で3度にわたって占領・破壊され、そのたびに再建と増築がなされました。しかし18世紀初め、マンハイムに近代的な宮殿が築かれることになってハイデルベルクは衰退しました。さらに1764年の落雷による火事以降、城は放棄されることになったのです。

広大な城の敷地は、今は修復が進んで、観光客で大変な賑わいです。南側の庭園から旧市街地を見下ろすことができ、ネッカーの流れにそって街が出来ている風景は変化に富みます。

聖霊教会
聖霊教会外観

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 ハイデルベルク旧市街地の中心、Marktplatzに聖霊教会Heilliggeistkircheがあります。

聖霊教会はハイデルベルグの歴史の宗教的側面をよく反映していると思います。内部は身廊が狭く、側廊とほぼ同じ幅のゴシック式建築で、代々選帝候の墓が置かれてきましたが、先に述べたプファルツ継承戦争のときにフランス軍の破壊にあって、多くの墓が壊されました。
1555年のアウグスブルク宗教和議によって、「領主の宗教がその領土で行われる」という原則が確認され、ルター派はドイツに根を下ろしました。
それまでハイデルベルグでは政権を握る選帝侯の見解によってカトリック派、プロテスタント派と揺れ動き、長く紛争が続きました。18世紀初めにはこの聖霊教会の中に壁が作られ、両派が教会を分けて使っていたそうです。1936年にプロテスタント派が権利その他をカトリック派から買い取って、争いは終わりました。

 
物理学の窓
「物理学の窓」文章は聖書からの引用だそうです。

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聖霊教会の南西端のステンドグラスから、燃えるような赤い色が教会の空気を染めています。この窓には、ドイツ語で聖書の引用と、ヒロシマの原爆投下を悼んでその日付が書き込まれ、割れた地球から中身が溶け出しています。また、E=mc2の公式もあるので、原爆だけの話ではなさそうです。
調べてみると、これは「物理学の窓」でした。教会の窓を大学の各学部を象徴するステンドグラスで飾ろうという案があり、試しに1つ作ってみたそうです。学問を擬人化された人物とその持ち物でステンドグラスに表す例はほかの教会でも見たことがありますが、これは現代的な作品ですね。
赤い色は暴力を表し、E=mc2はアインシュタインのエネルギーと質量の関係式。1939年、当時アメリカに亡命していたアインシュタインは、ナチス・ドイツがウラン中の核連鎖反応を用いた強力な爆弾を作ることを恐れ、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトにそのことを警告する手紙を書きました。
彼自身は原子爆弾の製造には声をかけられませんでしたが、政府の目をそちらに向けさせることになったきっかけには関与しました。彼自身はドイツで生まれて教育を受け、スイスで働いたユダヤ人でした。彼はナチス・ドイツに追われて亡命し、友人・家族・同胞を亡くす恐怖に迫られていたのは確かです。彼自身の問題はそうで、しかし日本に原子爆弾が落とされたことには大きな衝撃を受けていました。

自然科学は自然科学の真理として私を魅了してきました。物理はまったく専門外だけれど、目に見えない微小の世界や、想像するしかない広大な宇宙の力学などの話を好んで読んだし、そういう話は日常を越えていて想像力をかき立てられたものです。しかし同じ物理学が、一方では人が触れられないほど危険なエネルギーをもたらしました。そのことが残念でなりません。しかし、一度は科学に魅了されたからこそ、その危険な側面から目をそらすことは許されないという義務感も感じます。

ドイツの旅と中世都市

フライブルグの大聖堂と旧市街

今年7月、ドイツ国内の都市をいくつか見て回りました。宗教改革者ルターの足跡とバロックおよびロマネスク建築をたどる旅でした。いくつもの街をめぐっていくと、ヨーロッパの都市特有の共通性が見てとれます。

 大体どの都市にも教会堂Münster、市庁舎Rathaus、市場の広場Marktplatzがあって、これは中世から続く都市の構造の名残です。Marktplatzは都市の中心部で、市場が開かれる場所でした。この広場に沿って教会と市庁舎が建てられることが多く、また教会堂の尖塔は遠くからも望見できたので、都市の位置を知らせる(しるし)でもありました。また、都市は石造りの城壁で囲まれ、わずかに城門によって外部の農村地帯とつながっていました。フライブルグ、ストラスブール、エディンバラなどの都市名に見られる~ブルク・~ブール・~バラとは「城壁」を意味する語で、その来歴をよく物語るものです

 今回の通信では、中世都市の成立について、フライブルグを例に紹介したいと思います。



 中世都市の成立とフライブルク

89世紀の西ヨーロッパでは、相次ぐ異民族の侵入とフランク王国の分裂、およびその後の王権の衰退の中で、封建制を基盤とした仕組みが社会に成立していきました。1011世紀頃になると封建社会は安定し、余剰生産物を取引する定期市が開かれ、長く停滞していた商業が再び活気を取り戻します。また、ムスリム商人やバイキングの商業活動によって貨幣の使用が進むと、それに刺激されて、商人は交通の便がよく、また安全な場所に商人集落を形成するようになります。これが荘園(私有地)の商工業者を吸収して中世都市として発展することになりました。

成立し始めた頃の都市は、近くの封建領主の保護を受けることもありましたが、経済力の上昇とともに次第に自治を要求するようになります。通常は、特許状による諸権利(市場権・貨幣鋳造権・居住権・交易権など)の買収というかたちで都市は自治権を獲得していきます。しかし領主にとっても都市への課税や関税収入は重要な収入源であったため、両者の交渉は平和裡に進むとは限らず、闘争に至ることもありました。

一方で、12世紀後半から13世紀にかけて、ドイツの新たに開発された地方を中心に、諸侯が積極的に都市を建設することもありました。フライブルグはその例としてよくあげられています。1091年にツェーリンガー公によって城が建設され、1120年にツェーリンガー公コンラッドとベルトルト3世により、市場と都市の権利が都市に与えられました。フライブルク、自由の町という名前はこれに由来しています。諸侯は、自領の軍事的要衝を固めると共に、各地の商工業者を集めて経済的繁栄をはかろうとしたのです。
 中世のドイツに「都市の空気は自由にする Stadtluft macht frei」ということわざがありますが、このときの「自由」は現代的な自由の意味とはかなり違って、封建領主の権力からの「自由」を示しました。