2012年2月22日水曜日

Fasnacht(ファスナハト)=カーニバル

フライブルク市内にパレードを見に来た人たちの壁

ファスナハトFasnachtとかファスネットFasnetとこのあたりでは呼ばれるお祭りがありました。カーニバルつまり謝肉祭です。
クリスマスが終わると、クリスマス用品を置いてあった百貨店の売り場は、いきなり安っぽいが派手な服やグッズでひしめき合いました。ここ1週間か10日ほど前から、仮装した人たちをちらほら見かけ、いよいよRosenmontag(ローゼンモンターク、薔薇の月曜日)にはフライブルク市街を仮装行列が練り歩きました。

謝肉祭とは?
=四旬節に入る前に行われるお祭り。
四旬節とは?
=復活祭の前46日間を指す。肉を食べない習慣があるが、現在のドイツではあまりメジャーではなさそう。
復活祭とは?=イエス・キリストが十字架に架けられて3日後に復活したことを記念する祝日。年によって日付が変わる移動祝日。よって、四旬節の期間も、謝肉祭も、毎年日にちは違う。

謝肉祭もキリスト教文化圏の節期ではありますが、正教会とカトリックでは少し時期がずれるらしい。また、キリスト教由来のものでもないらしい。ゲルマン人の春の到来を喜ぶ古い祭りに由来するという説があるんだとか。確かに、宗教的というより通俗的な雰囲気があります。

仮装した人が沿道に並ぶ家族連れに近づいていって、子どもが怖がって泣き出すと余計怖がらせたり、頭なでたりする様子は、まるで「なまはげ」のようです。仮装した鼓笛隊が来たり、変化に富んでおりました。この日は法的に定められた休日ではないのに、スーパーなど小売店は自主閉店です。役所も閉まっているようでした。


2日後、また街中の百貨店にいくと、ファスナハトのための売り場は撤収され、掃除中。次は復活祭のための商品かな?

2012年2月18日土曜日

豚の角煮

豚バラ・ブロックのパック包装のものを買って、豚の角煮にしてみました。

あとで包装をよく見たら、豚バラ・塩漬け肉だった。
醤油・生姜・にんにく・砂糖・白ワイン・はちみつ・ポロネギ・大根と一緒に煮て、肉の塩分が抜けて煮汁に移り、大根にしみこんでかなり塩辛い。豚の角煮はちょうどよかった。少しのおかずにご飯がたくさん、という和食スタイルには満足できた。…散歩してこよう。

2012年2月16日木曜日

王女エリザーベト

ドイツでは聖霊教会、聖母教会、巡礼教会などと名付けられた教会がよくあるが、その中にエリザーベト教会Elisabethkircheという名前もしばしば目にする。聖人に列せられたハンガリー王女エリザーベト。13世紀の人である。

昨年夏、宗教改革者ルターの足跡をたどるため、テューリンゲン地方アイゼナッハのヴァルトブルク城を訪れた。彼は教皇に破門され、皇帝から法の保護外に置かれるという追放処分を受けたあと、ザクセン選帝候フリードリヒ三世に匿われて、この城に潜んだ。ルターが聖書のドイツ語訳を行った部屋が保存されている。

夏だったせいもあって、まあ大変な混雑。その上ガイド付きのコースに参加しないと城の内部は見られないというから、参加した。そしたらガイドの大半はルターとは関係なかった。ルターがここで聖書を訳したときには、すでにこの城には充分歴史が積み重なっていたということではある。

そしてここに、金色のモザイクが輝く「エリザーベトの間」があった。太い柱に支えられた半円筒ヴォールトの広間の壁と天井一面、ぎっしりとガラス・モザイクで装飾されている。モザイクは20世紀に施されたものだが、描かれているのは13世紀の聖人、エリザーベトである。

13世紀初頭、ハンガリー王女エリザーベトは、Landgraf(方伯と訳される。国王に対してその土地を守護する職に任ぜられた者)の婚約者として、ヴァルトブルク城へ連れてこられた。当時4才。彼女は長じて14才でルートヴィヒ四世の妻となるが、彼は十字軍に参戦してイタリアの海岸で戦死。その後彼女はヴァルトブルク城を追われ、マールブルクに移る。

エリザーベトはアッシジの聖フランチェスコを手本とした禁欲的な生活を送った人であったらしい。貧しい人々や病人のために施しをし、さまざまな場所に救貧院を作った。マールブルクでは修道協会で生活し、自らが設立した救貧院の一つで働き、1231年に24才の若さで亡くなった。1235年には教皇によって列聖されている。
マールブルクには彼女の棺を納めるために作られたエリザーベト教会があり、交差部から先は入場料を取るほどの観光地になっている。

中世のヨーロッパにどれほどキリスト教が浸透していたか、うかがえる話だと思った。アッシジの聖フランチェスコが活動した時期は、エリザーベトとほぼ同時代である。教会の制度もかなり確立されている。

グリム兄弟とメルヘン街道

ドイツ語文法には語尾の弱変化・強変化というやっかいなものがあります。この「弱変化・強変化」という用語は、『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄の方、ヤーコプ・グリムの研究から生まれた造語らしい。彼は法制史・印欧語の研究者で、社会的にも成功した人だったようです。

ヤーコプ・グリム(Jacob Ludwig Karl Grimm)とウィルヘルム・グリム(Wilhelm Karl Grimm)のグリム兄弟を、何となく中世の人かと思っていましたが、実際は18世紀に生まれ19世紀に活動した、現代の人なのでした。当時ドイツは疾風怒濤と呼ばれる文学運動のただ中にあって、ドイツ固有の文化・伝統の見直しが求められ、民謡や童話に注目が集まっていたそうです。


グリム兄弟に関わる地域が観光に力を入れています。グリム兄弟が生まれたハーナウはフランクフルトから東へ20kmほどのところ。ここが通称「メルヘン街道」の始まりで、彼らが幼少時代を過ごしたシュタイナウ、大学生時代を過ごしたマールブルク、教鞭を執ったゲッティンゲン、「ゲッティンゲン七教授事件」で失職し、亡命していたカッセルなどを繋ぎます。メルヘン街道はハーナウから北に延び、グリム童話の『ブレーメンの音楽隊』にちなんで、終点はブレーメン。

~街道、ってドイツ人は好むようですね。実際そのルートに沿って歩くかどうかは別にしても、人や地域が連合し、協働することに対して積極的な感覚を持っているような気がします。

2012年2月15日水曜日

円城塔が芥川賞

1月半ば、円城塔氏が芥川賞を受賞したというニュースをNHKオンラインで耳にして、とたんに私が素っ頓狂な声を上げたので、主人がどうした、おかしくなったかと驚いた。

円城塔氏が芥川賞を受賞インタビューで、
「芥川賞というのは多くの読者に読まれるものなので、もっと多くの人に読んでもらえるような作品を書かなくては、と思います」
とのことです、と言うのを聞いて、なるほど、そう思ってるんだ、と思う。本人も仰るように、読む人を限定する作品だと思っていたので、芥川賞なんてメジャーなものを受賞するなんて思いもしなかった。でもこれまで2度ノミネートされていて、3回目で受賞だったらしい。知らなかった。

  彼の『Self-Reference ENGINE』は多次元に分裂してしまった世界がどうとかという連作短編の形を取っていた。その読後感は昨年夏にバーゼルのバイエラー財団(の美術館)でブランクーシの彫刻を見たときの感じに似ていたと思う。
話の筋からというよりは文体と単語そのものから、世界観とか、言葉とはなにか、それを使う人間とはどう世界を意識し、世界はどう定義され、実際の世界とその定義はどれくらいずれているのか、ということを考えさせられる。なにか教訓的な結論が出るわけではないのだけど。

次は、伊藤計劃氏(円城塔と大体同時期にデビューして、3年前に亡くなった作家)の遺稿を引き継いで、完結させる作品が進行中らしい。伊藤計劃も大変な人気だったのに、私が読んだときにはすでに亡くなっていた。惜しい人を亡くしたなって、会ったこともないのに、思った。途中までの原稿が円城塔氏によって作品として完結させられるとしたら、すばらしいことだ。

日本に帰ったら芥川賞受賞作「道化師の蝶」を読んでみよう。…古本屋さんに行ったらたくさん積んであるかもしれませんな。

2012年2月10日金曜日

編み物


10月に買った毛糸で、カーディガンができあがりました(^o^)。拍手(して)!
カーディガンというか、日本で着るならジャケットみたいな感じだな。
今やインターネットで無料の編み図が公開されています。嬉しいことです(時々間違ってるけどね)。この編み図ではもともと薄いピンクの毛糸を使ってあったけど、黄色に近いベージュで編みました。毛糸を買いに行った時には、暗い色で編もうと思ったんだけど。知り合いと一緒に買い物に行って、「こんなにいろんな色があるのに」と言われて気が変わったのでした。でも気がついてみると、前編んだベストとそっくりな色でした。色合わせが難しかったから黒や紺にしようと思ったのに、また同じ間違いをしてしまった…。
でもいい毛糸なので、軽くて暖かい。折しもヨーロッパは大寒波。多分春頃できあがって、着るのは来年の冬と見当していたので、早くできあがって一番必要なときに着られるのはよかった。

2012年2月8日水曜日

寒波



ヨーロッパに寒波。このあたりも冷え込んで、昨日は最低気温-18度。
家の近くの池が凍りました。石や木の枝が投げてあって、凍っているのがわかります…。
この池ではウィンタースポーツは禁止。わざわざ禁止と書いてあるくらいだから多分危ないです。
一部分だけ氷が張っていなくて、水鳥がいました。白鳥も。白鳥はけっこう凶暴で、近くでサンドイッチなど食べていると襲いに来るらしい。
この池にはビーバーもいまして、別の日には水面近くに張り出した木の枝に上っているのを見かけました。まだ若いみたいで、小さいです。
水鳥はぽっちゃり太って、氷の上にどかっと座っているのが…寒そうだけど、可愛げがある。

ツヴィーファルテン修道院

写真は暗くてうまく取れなかったので、はがきの写真です (c)Kunstverlag PEDA

ツヴィーファルテン修道院付属教会。南ドイツの、小さな村にあるバロック・ロココ式教会堂建築です。 

  バロック建築は、それ以前のルネサンス建築に比べるとダイナミックで劇的な効果を追求し、見る者に強烈な感覚的刺激を与えます。また、絶対王政下の宮廷に用いられたので、国王の権威を派手に見せつけるためにもたいてい規模が大きく、圧倒的な量感をもっています。フランスのベルサイユ宮殿もその代表作で、ルイ14世の頃建設され、ルイ15世の頃ロココ様式 と呼ばれる、曲線を多用した、優雅で華麗、かつ官能的な内装の様式が生まれました。

フランスの影響で、ドイツにはバロック建築とロココ様式は相まったかたちで移入され、ヨーロッパ全体では新古典主義に区分される18世紀後半になってもバロック建築が建て続けられます。
ドイツのバロック・ロココ建築の代表的なものは、バイエルン地方、ドレスデン、ベルリン・ポツダム、フランケン地方にあります。

 前置きが長い(^_^;)

 今回見に行ったツヴィーファルテン修道院は、シュヴァーベン地方(注1)にあります。行政地区ではバーデン・ヴュルテンベルク州に属します。「黒い森」以東は、道路がシュットットガルトやウルムを中心に放射状に伸びているので、都市間の移動は楽ですが、小さい町から町に移動するのはけっこう不便な感じがしました。

 これまで見てきた教会とはまったく違う。高窓から入る光が白いスタッコ装飾の壁に輝き、明るく、軽快で、豪奢。教会がこんなに贅沢でいいのかなぁと思いましたがそれはそれとして。
 ロマネスクやゴシックにはない豪奢さが新鮮で、見たあと向かいのカフェで休憩しながら、主人と興奮してしゃべってました。

ドイツで楽しいのはこういう観光をしたあと、たとえ日曜でも近くにカフェや休憩できるレストランがあって、大して高くない出費でゆっくりできることです。このときのカフェはパン屋さんのイートインでしたがかなり広く、トイレもきれいで間取りが大きめでした(ドアがびっくりするほど大きい)。奥の方は子どもたちが遊べるようなスペースになっていて、おもちゃが箱に入れてありました。観光と地元の人の暮らしがここで交わっている、というのがいいなと思いながら、味はいまいちのコーヒーを飲んでいました。


 教会で「上シュヴァーベン地方のバロック街道」と題された地図を絵柄にしているはがきを買いました。この付近5、60キロ四方にはこういう教会堂がたくさんあるらしい。きっと家族でお腹いっぱい昼ご飯を食べた日曜の午後、車で行って軽く見て回りながらおしゃべりし、ゆっくりするんだろうな。
 

(注1)現在の行政地区では、アウグスブルクを中心としたバイエルン州南西部にシュヴァーベンの名前があるが、歴史的にはバーデン・ヴュルテンベルク州中東部・南東部(シュトゥットガルトやウルムなどの都市)を中心として、バイエルン州南西部などを含む一帯を指す、やや漠然とした地方名称。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」にも出てくる。


2012年2月7日火曜日

キャリーバックの子ども


ある日、飲み物やじゃがいもなど、けっこう重たい買いものをしてきて家に帰ってきたときのこと。

集合住宅では建物の入り口の鍵と、住まいの鍵の両方を開けないと入れません。そしてこのドアが大きくて、重い。開け放しにはできなくて、片手で押さえたまま荷物を入れないと行けないので、一人ではちょっと不便です。
建物の入り口を鍵で開けていると、そばの植え込みから、ひょこっと子どもが出てきました。5,6才くらいの男の子が一人。
かくれんぼでもしてるのかなと思うと、人見知りせずに近づいてきて、「僕、あなたを手伝います」という。
うん?と見ていると、私の買いもの用キャリーバックを中に引き入れてくれた。ここの子どもで中に入るついでだったのかな、と思うと、さっさと出ていこうとする。
後ろ姿にありがとう、と声をかけると、普通に「どういたしまして」と言って去っていった。

手伝うためにひょこっと出てきてくれたらしい。それも、いいことしてるでしょって雰囲気ではなかった。そういうときにはそうするものと思ってたみたい。かわいいなぁ。

ボンヌ・ママン



10日ほど前、最寄りのREWE(というスーパーマーケット)で買いものしていたときのこと。
ジャムなど買う物をレジ前に並べて会計を待っていたら、後ろの奥さんが私の肩をちょいちょいとつついて、こういった。
「ボンヌ・ママンのジャムなら、向かいのtreff(トレフ3000という別のスーパー)の方が安いわよ!70セントも違うんだから。」
と、親切に教えてくれました。すごいっ。生活感あふれるアドバイス…ドイツ人はそういう感覚なんだ。


ということで昨日はジャム買いにtreff3000へ。確かに同じジャムが安かったのだけど、ボンヌ・ママンに限っては種類もREWEより多かった。でもREWEはジャムそのものの品揃えはもっと多いのである。そういうふうに棲み分けているのね。

ドイツ語でジャムはdie Marmelade だけど、買いものメモにはギリシャ語でΜαρμελάδα(マルメラーダ)と書いてしまう。そういうとき、ちょいと懐かしい。