2012年5月30日水曜日

「それ、もらいます。Ich nehme das.」

最近は、愛読世界史(山川出版社の『詳説世界史』のことだ。)を読む以外にはケーキを焼いたりしかしていない!が、ささやかに楽しいことはいくつかあった。

5月半ば、いつものスーパーに買い物に行ってレジに並んでいると、顔なじみになったレジの店員さんが商品のバーコードを機械に通して計算してくれる。突然、私の顔を見て「ちょっと待って、」と言うと、彼は並んでいる客をかき分け店内に走って行く。
 雑誌売り場に置いてあった、そのスーパーが出してる雑誌を取ってきて、「クーポンが付いてるから!雑誌自体は1€するけど、ジャムとかジュースとかが安くなるからお得だよ!」と私とほとんど年の変わらないお兄さんが早口でまくし立てた。確かにジュースとかジャムは欠かさずに買うからちょっとでも安くなれば助かるし、なによりもたったか走っていって取ってきてくれたんなら、頂きますよ。試したことのないメーカーのを試すにはいい機会かもしれないし。

「それ、もらいます。Ich nehme das.」 くらいは言えるようになっていてよかったです。

60€わりびき!って書いてあるけど、要らない物は買わないのでそもそも得にも損にもならないが、ジャムとジュースと密封パックとあと二品くらいは使えそうである。3€くらいは、節約できたかな。

 ヨーロッパ経済の中でドイツは一人勝ちだが、内需は弱いそうである。外国で高く売れる車とか機械とかの技術を持っているので、それがドイツの経済を支えている。
 たしかに皆さん華美な格好はしてないし、唯一おしゃれするのは結婚式とオペラかクラシックのコンサートに行くときくらいだろう。百貨店で売ってる服は、品質の割には不釣り合いに高いと思うけれど、バーゲンになればまたびっくりするほど下がるのだ。内需が弱いのを反映してか、割引とかクーポンとかの気前は非常にいい。それくらいしないと、売れないんだろうな。

2012年4月17日火曜日



日本から送った荷物が届き、片隅にマフィン型を入れてあったので、計画通り一度にたくさん作りました。いつものブルーベリーマフィン!今回、ブルーベリーは生で買って冷凍してあったもの。型が小さいので、10個の予定が14個できた。(一個あたりがいかに小さいか…)

2012年3月8日木曜日

Buttermilchkuchen mit Walnüssen クルミ入りバターミルクケーキ

ある日、Buttermilchkuchen mit Walnüssen(クルミ入りバターミルクケーキ)を焼いてみましたが、失敗。

砂糖を入れ忘れ、ベーキングパウダーを入れすぎた。後で分かったことだが、ベーキングパウダーは炭酸水素ナトリウムを主成分としているので、熱分解して生じる二酸化炭素の力で生地がふくらむんだけど、炭酸ナトリウムが生じてアルカリ性になり、風味を損なう、そうだ。確かに、すごーーーーく苦かったの。口の中がしびれるくらい。
砂糖を入れ忘れたら甘さがなくなるだけではないんだなぁ。
その後、砂糖も忘れずベーキングパウダーも適正に入れ、確実に素早くできるお菓子として我が家に定着してきました。



このButtermilchkuchen mit Walnüssenのレシピは、約10€で本屋で買ったレシピ本に載っていたものです。Blechkuchenの型とセットになっていました。Blechとはブリキや延べ板、kuchenとはふっくらした焼きケーキのことで、Blechkuchenは「薄切りパン」と辞書にありました。ベーキングパウダーやイースト菌を使ってふくらます、天板で焼くケーキ類のことらしい。パン屋さんの店頭でこういった形のケーキはよく見かけます。でも、イースト菌はまだ使ったことがないので、これからの目標です。

けっこう立派な付録付きの雑誌、というのが日本にいたときにもはやってましたが、お菓子作りの本にケーキの型がついてるセットなどもありました。型だけ買うのと値段はそんなに変わらなくて(と、思ったけど)、ついマフィン型とセットになってるマフィン作りの本を買ったな…。それはドイツでも売ってた。マフィン型もセットで。もともとアメリカで出版された本だと思うけど、レシピもアイディアもインターナショナルになりました。

2012年3月2日金曜日

Basler Totentanz(バーゼルの「死の舞踏」)

スイスの北西角にある都市バーゼルは、人口約16万5千人、バーゼル=シュタット準州の州都にして、チューリヒ・ジュネーヴに次ぐ第三の都市です。バーゼルはスイス・フランス・ドイツの3国が接する地点にあって、ライン川をまたいで市域が広がっています。また、ライン川を航行する大型船舶の最上流の港があります。

フライブルクと比べると、土地の起伏があり、その中をいくつもの市電が縦横無尽に走っているので、手狭な感じ。

街の中心部の一つ、BarfüsserplatzにあるHistorisches Museum Basel Barfüsserkirche(バーゼル歴史博物館)。Barfüsserkircheとはバルフュッサー教会ということで、かつて教会だった建物が歴史博物館になっています。外観はどことなく冴えないのですが、中に入るとさすがに大きな建物です。1階の吹き抜け(教会の外陣)にカフェやチケットカウンター、ミュージアムショップがあり、面白い空間になってました。

さて、この元教会の内陣(半円形に出っ張ってるところ)奥に、小さな出入口があります。そこをくぐり、人がすれ違うのも苦労するような細長い狭い部屋を横切り、また狭い階段を下ると、そこにはぞっとするような絵が並んでいます。
これは、15世紀前半に、町の教会墓地の外壁に描かれていた壁画です。1805年に破壊されましたが、破片をつなぎ合わせて修復・復元されたものです。
何とも写実的な骸骨が、司祭を、王を、王妃を、若い娘を、商人を、老人を、若者を、死に誘い絡みつきます。絡みつかれた人間は、絶望に顔をゆがめ、もはや拒む力もなくしたような表情です。
これがバーゼルのTotentanzトーテンタンツ、「死の舞踏」(リンクをクリックすると、wikipediaにある画像が見られます)。
中世の度重なる戦乱、疫病、飢饉などのために、死は今よりも身近なものだったに違いありません。貴族、僧侶、庶民、どんな階層の者も、死からは逃れられない。死は、非情に人生に来たり、生を中断させる。

2月下旬、バーゼルにもファスナハトの季節がやってきます。バーゼルのファスナハトは有名ですが、「リオのカーニバル」などと比べるとまったく趣が違うことに驚かされます。底抜けの明るさなどではなく、皮肉っぽく辛辣、グロテスクに強調された、原始的で衝動的な笑いの気配が漂うのです。



スイス人のジョークって、噂に聞くとかなり皮肉っぽくてきついそうですが…。そういうのと関連しているのかな。

2012年2月22日水曜日

Fasnacht(ファスナハト)=カーニバル

フライブルク市内にパレードを見に来た人たちの壁

ファスナハトFasnachtとかファスネットFasnetとこのあたりでは呼ばれるお祭りがありました。カーニバルつまり謝肉祭です。
クリスマスが終わると、クリスマス用品を置いてあった百貨店の売り場は、いきなり安っぽいが派手な服やグッズでひしめき合いました。ここ1週間か10日ほど前から、仮装した人たちをちらほら見かけ、いよいよRosenmontag(ローゼンモンターク、薔薇の月曜日)にはフライブルク市街を仮装行列が練り歩きました。

謝肉祭とは?
=四旬節に入る前に行われるお祭り。
四旬節とは?
=復活祭の前46日間を指す。肉を食べない習慣があるが、現在のドイツではあまりメジャーではなさそう。
復活祭とは?=イエス・キリストが十字架に架けられて3日後に復活したことを記念する祝日。年によって日付が変わる移動祝日。よって、四旬節の期間も、謝肉祭も、毎年日にちは違う。

謝肉祭もキリスト教文化圏の節期ではありますが、正教会とカトリックでは少し時期がずれるらしい。また、キリスト教由来のものでもないらしい。ゲルマン人の春の到来を喜ぶ古い祭りに由来するという説があるんだとか。確かに、宗教的というより通俗的な雰囲気があります。

仮装した人が沿道に並ぶ家族連れに近づいていって、子どもが怖がって泣き出すと余計怖がらせたり、頭なでたりする様子は、まるで「なまはげ」のようです。仮装した鼓笛隊が来たり、変化に富んでおりました。この日は法的に定められた休日ではないのに、スーパーなど小売店は自主閉店です。役所も閉まっているようでした。


2日後、また街中の百貨店にいくと、ファスナハトのための売り場は撤収され、掃除中。次は復活祭のための商品かな?

2012年2月18日土曜日

豚の角煮

豚バラ・ブロックのパック包装のものを買って、豚の角煮にしてみました。

あとで包装をよく見たら、豚バラ・塩漬け肉だった。
醤油・生姜・にんにく・砂糖・白ワイン・はちみつ・ポロネギ・大根と一緒に煮て、肉の塩分が抜けて煮汁に移り、大根にしみこんでかなり塩辛い。豚の角煮はちょうどよかった。少しのおかずにご飯がたくさん、という和食スタイルには満足できた。…散歩してこよう。

2012年2月16日木曜日

王女エリザーベト

ドイツでは聖霊教会、聖母教会、巡礼教会などと名付けられた教会がよくあるが、その中にエリザーベト教会Elisabethkircheという名前もしばしば目にする。聖人に列せられたハンガリー王女エリザーベト。13世紀の人である。

昨年夏、宗教改革者ルターの足跡をたどるため、テューリンゲン地方アイゼナッハのヴァルトブルク城を訪れた。彼は教皇に破門され、皇帝から法の保護外に置かれるという追放処分を受けたあと、ザクセン選帝候フリードリヒ三世に匿われて、この城に潜んだ。ルターが聖書のドイツ語訳を行った部屋が保存されている。

夏だったせいもあって、まあ大変な混雑。その上ガイド付きのコースに参加しないと城の内部は見られないというから、参加した。そしたらガイドの大半はルターとは関係なかった。ルターがここで聖書を訳したときには、すでにこの城には充分歴史が積み重なっていたということではある。

そしてここに、金色のモザイクが輝く「エリザーベトの間」があった。太い柱に支えられた半円筒ヴォールトの広間の壁と天井一面、ぎっしりとガラス・モザイクで装飾されている。モザイクは20世紀に施されたものだが、描かれているのは13世紀の聖人、エリザーベトである。

13世紀初頭、ハンガリー王女エリザーベトは、Landgraf(方伯と訳される。国王に対してその土地を守護する職に任ぜられた者)の婚約者として、ヴァルトブルク城へ連れてこられた。当時4才。彼女は長じて14才でルートヴィヒ四世の妻となるが、彼は十字軍に参戦してイタリアの海岸で戦死。その後彼女はヴァルトブルク城を追われ、マールブルクに移る。

エリザーベトはアッシジの聖フランチェスコを手本とした禁欲的な生活を送った人であったらしい。貧しい人々や病人のために施しをし、さまざまな場所に救貧院を作った。マールブルクでは修道協会で生活し、自らが設立した救貧院の一つで働き、1231年に24才の若さで亡くなった。1235年には教皇によって列聖されている。
マールブルクには彼女の棺を納めるために作られたエリザーベト教会があり、交差部から先は入場料を取るほどの観光地になっている。

中世のヨーロッパにどれほどキリスト教が浸透していたか、うかがえる話だと思った。アッシジの聖フランチェスコが活動した時期は、エリザーベトとほぼ同時代である。教会の制度もかなり確立されている。