2011年12月9日金曜日

ドイツの旅と中世都市

フライブルグの大聖堂と旧市街

今年7月、ドイツ国内の都市をいくつか見て回りました。宗教改革者ルターの足跡とバロックおよびロマネスク建築をたどる旅でした。いくつもの街をめぐっていくと、ヨーロッパの都市特有の共通性が見てとれます。

 大体どの都市にも教会堂Münster、市庁舎Rathaus、市場の広場Marktplatzがあって、これは中世から続く都市の構造の名残です。Marktplatzは都市の中心部で、市場が開かれる場所でした。この広場に沿って教会と市庁舎が建てられることが多く、また教会堂の尖塔は遠くからも望見できたので、都市の位置を知らせる(しるし)でもありました。また、都市は石造りの城壁で囲まれ、わずかに城門によって外部の農村地帯とつながっていました。フライブルグ、ストラスブール、エディンバラなどの都市名に見られる~ブルク・~ブール・~バラとは「城壁」を意味する語で、その来歴をよく物語るものです

 今回の通信では、中世都市の成立について、フライブルグを例に紹介したいと思います。



 中世都市の成立とフライブルク

89世紀の西ヨーロッパでは、相次ぐ異民族の侵入とフランク王国の分裂、およびその後の王権の衰退の中で、封建制を基盤とした仕組みが社会に成立していきました。1011世紀頃になると封建社会は安定し、余剰生産物を取引する定期市が開かれ、長く停滞していた商業が再び活気を取り戻します。また、ムスリム商人やバイキングの商業活動によって貨幣の使用が進むと、それに刺激されて、商人は交通の便がよく、また安全な場所に商人集落を形成するようになります。これが荘園(私有地)の商工業者を吸収して中世都市として発展することになりました。

成立し始めた頃の都市は、近くの封建領主の保護を受けることもありましたが、経済力の上昇とともに次第に自治を要求するようになります。通常は、特許状による諸権利(市場権・貨幣鋳造権・居住権・交易権など)の買収というかたちで都市は自治権を獲得していきます。しかし領主にとっても都市への課税や関税収入は重要な収入源であったため、両者の交渉は平和裡に進むとは限らず、闘争に至ることもありました。

一方で、12世紀後半から13世紀にかけて、ドイツの新たに開発された地方を中心に、諸侯が積極的に都市を建設することもありました。フライブルグはその例としてよくあげられています。1091年にツェーリンガー公によって城が建設され、1120年にツェーリンガー公コンラッドとベルトルト3世により、市場と都市の権利が都市に与えられました。フライブルク、自由の町という名前はこれに由来しています。諸侯は、自領の軍事的要衝を固めると共に、各地の商工業者を集めて経済的繁栄をはかろうとしたのです。
 中世のドイツに「都市の空気は自由にする Stadtluft macht frei」ということわざがありますが、このときの「自由」は現代的な自由の意味とはかなり違って、封建領主の権力からの「自由」を示しました。